『火垂るの墓』の清太の死因は、普通に見れば、栄養失調による感染症や餓死…に見えますよね。
しかし一部では、
「清太の死因は、自殺なのでは…?」
という見方が広まっています。
しかし清太の死因は、自殺ではありません。
最後清太が死んだ場所から考えても、自殺とは到底思えません。
当記事では、
清太の死因は何なのか?
また、なぜ自殺とはいえないのか?
ということを解説していきます。
清太の最後の死亡シーンをおさらい(火垂るの墓)
清太の死亡シーン(と同時に物語の始まり)は、
「昭和20年9月21日の夜、僕は死んだ」
というナレーションの共に、
亡霊となった清太が、
駅構内の柱を背に、
がっくりとうなだれるようにしてすわっている自分の姿を眺めるところから始まります。
亡くなる間際の清太は、
裸足で、
服はボロボロ。
うつろな目をして、浅い呼吸をしていました。
通行人から、「汚いなあ」などと心無い言葉を浴びせられます。
親切な人が、お供え物でもするかのように、清太のそばに握り飯をそっと置いて去っていきます。
(今、何日なんやろう…)
清太はそのまま、床に倒れ込みました。
(節子…)
清太の顔に、ハエが止まります。
清太は亡くなり、駅員が、ブラシの柄で清太をつつき、死亡したことを確認すると、「またか」と口にします。
駅構内には、清太と同じように亡くなっている、またはじきに亡くなりそうな浮浪児が何人もいました。
駅員は清太の着衣を確認し、ドロップ缶を見つけると、それを、草むらに向かって振りかぶると投げました。
ドロップの缶の蓋が地に落下した衝撃で取れ、
中から節子の骨が飛び出します。
するとそこから節子の亡霊が姿を現し、
清太が迎えにやってきます。
ふたりは笑顔で顔を見合わせるのでした。
清太が最後死んだ場所はどこ
省線三ノ宮の駅構内浜側です。
(なぜ駅構内なのかは、後述)
清太が死亡した日付は何の日
清太が死亡した日付は、昭和20年9月21日ですが、
この日は、
「国際平和デー」
です。
国際平和デーとは、国連が定めた平和記念日です。
清太の死因は?原作から自殺ではない理由も読み解く(火垂る墓)
栄養失調による衰弱死(自殺ではない)
清太の死因は、映画『火垂るの墓』の原作小説、野坂昭如さん作『火垂るの墓』にはハッキリと記載されています。
白い骨は清太の妹、節子、八月二十二日西都満池谷横穴防空壕の中で死に、死病の名は急性腸炎とされたが、実は四歳にして足腰立たぬまま、眠るようにみまかったので、兄と同じ栄養失調による衰弱死。(野坂昭如作『火垂るの墓』ポプラポケット文庫 P111~1112より引用)
つまり清太の死因は、栄養失調による衰弱死であり、自殺ではありません。
清太は、最後まで生きることを諦めていませんでした。
原作『火垂るの墓』で、清太が亡くなるまでの経過がどのように記されているかというのが、以下になります。
清太の両手の指の間に湿疹ができる。
↓
8月22日、清太にも慢性の下痢が襲いかかっていた。
↓
9月、清太はひたすら食物のにおいにつられ、三宮ガード下の闇市にやってきた。
母親の形見の長じゅうばん帯半襟腰ひもを売り、なんとか半月食い繋ぐ。
↓
続いて、スフの中学制服ゲートル靴も売る(ズボンはさすがにとためらう)。
↓
駅構内で夜を過ごすようになる。
↓
通行人がお情けで恵んでくれた食べ残しのパンやおひねいりの大豆で食い繋ぐ。
↓
水だけはいくらでもあるので、駅構内に居着くようになる。
↓
9月半ば~、足腰が立たなくなり、駅の便所にも行けなくなる。排泄物をその場に垂れ流すようになる(清太は恥じらい、その色を砂や埃で隠そうとした。が、無意味だった)。
清太の頬は痩せこけ色は青白い。
清太に飢えや渇きはなくなり、耳だけが生きている。
床に、自分が座っているときのままの格好で横倒しになったことも気付かない。
自分の弱い呼吸につられて床のかすかな埃が震えるのを見て「何日なんやろな」とそればかり考える。
9月21日の深夜、清太は三宮駅構内で野垂れ死した。衣類にはしらみがびっしりだった。
清太が、湿疹→慢性の下痢と、節子と同じ経過をたどっていることが分かりますね。
それもそのはずです、清太は節子と同じ暮らしをしていましたからね。
ただ清太は、14歳で節子より体が大きかったことなどを理由に、節子より1ヶ月多く生きながらえたのでしょう。
清太の死因が自殺だと言われる理由
清太の死因が自殺だといわれる理由は、次の理由からのようです。
①節子も父親も亡くなってしまって、生きる希望がなくなったから。
②おにぎりを恵んでもらったけど、興味を示さなかったから。
③7000万の預金があったのに、たった1ヶ月で亡くなってしまったから。
①節子も父親も亡くして生きる希望をなくした
前項で解説したように、実際には清太が生きる希望を無くしていたわけでないことは分かります。
人間の本来動物として備わっている生きる本能というものは、やはり強いものなのだと思います。
食べられないで死亡するのと、
食べられるものはあるけれど、自ら死を選ぶのとでは、また違いますよね。
生きたくても生きられなかった節子や両親の分までと、懸命に生きようとしたのかもしれません。
しかし個人的には、ただだだ、飢えを満たすといった本能で、生きていたのではないかと感じます。
衣食住、といった、人間として生きる為の最低限のものが揃った後であれば、もしかしたらそれから自殺もあり得るのかもしれないと思いますが、
それでもやはり、死の瀬戸際から状態から奇跡的に生還を果たしたのであれば、やはり、生きているだけでまるもうけ、といった人生観を手にしていたのではないか、と思います。
②恵まれたおにぎり食べなかった
清太は、行きずりの親切な人が置いていってくれた握り飯(あるいはまんじゅうなど)を口にすることなく、そのまま倒れて亡くなってしまいましたよね。
握り飯についての興味はみじんも示しませんでした。
しかしこれは、
原作や前項を読んでもらえると分かることかと思いますが、
このとき清太はすでに力尽きる直前で、誰かがおにぎりを恵んでくれたことに、気が付けてはいなかった可能性が高いです。
たとえ気が付けていても、体に力は入らなかったでしょうし、胃も固形物を受け付けてくれたとは、到底思えませんが。
これがもぢあと半月も前だったら、清太はありがたく握り飯を頂戴していたのではないでしょうか。
③預金があったのに1ヶ月で死亡した
清太は節子が亡くなる直前に預金を切り崩していました。
が、清太はなぜこれまで預金を今まで切り崩さなかったのか。
↓
それは、当時は金の価値が低く、物々交換でないと、食料を手に入れることは難しかった為だと考えられます。
金があっても物が買えないので、金で物を売ろうとする人もいなかった。
闇市というものも存在していたが、子供には勝手が分からず、闇市で食物を手に入れることは難しかった。
ということなのでしょう。
因みに映画には、清太が銀行からお金を下ろすシーンがあります。
しかし原作には、預金の7000万こそ出てくれど、お金を下ろすシーンは出てきません。
最後、清太がお金をおろして節子にスイカを食べさせるシーンがありますが、あれも脚色です。
節子の死因は?原作から読み解く
栄養失調による衰弱死
節子は亡くなる前に、清太に連れられ病院で医者に診てもらっていました。
- 節子は下痢が止まらず、
- 右半身は透き通るよう色白で、
- 左は疥癬にただれきり、
- のみ、しらみびっしり。
しかし、医者には、
「滋養つけることですな」
と言われるだけ。
しかしその滋養をつける為の食料は、手に入らない状態です、
疥癬も、薬と清潔な生活環境を手に入れることができなければ、治癒することは難しいでしょう。
まとめ
清太と節子の死因は同じで、栄養失調による衰弱死でした。
清太は自殺したのではありません。
最後まで懸命に生きようとした清太に自殺説が持ち上がるのは、
かわいそうな気がしますね。
清太と節子の死因は栄養失調ですが、まあ、大きい目で見れば、清太と節子が死亡した原因は、戦争です。
そして、周囲の大人たちが、彼らを助けようと手を差し伸べなかったことでした。
清太と節子の命は、生まれた時代は悪かったですが、決して助けられない命ではありませんでした。
ですが、貧しさが、大人たちを無慈悲にさせたのでしょう。
しかし大人たちが、ふたりを助けなければならない、いわれもありません。
だから高畑勲は、
戦争が起きた原因は、隣人への無関心さにあると考え、
『火垂るの墓』について、「反戦映画ではないし、なり得ない」と話したのではないでしょうか。
清太たちは、地元では、隣人に恵まれていたようでしたが…
国内ですらそうなのに、顔も知らない他国の人に親身になるというのは、本来はいかに難しいかを思わされます。
参考URL:皮膚科Q&A(https://www.dermatol.or.jp/qa/qa6/index.html)
コメント